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震災復興メール

2011.05.04

澤田加奈子

自分が生きているうちに、こんな事が起きるなんて思いもしませんでした。その日は親友の出産予定日でした。あの日がまるで夢のようにすら思えます。でもあの日、大きな揺れの中、年寄りに被さっていたスタッフの顔だけは鮮明に覚えていて、そして絶対に忘れられない。尋常じゃない事が起きている事だけを悟ったあの顔。顔を見合わせて『ヤバいね、これ』とお互いが心でつぶやき、ひきつっていた顔。「大丈夫」「大丈夫」と口々に言ってた、私達だって本当は怖かった。ろうそくの灯りの中、ケータイは、規制されてなかなか機能しない。何回も送信を繰り返して、ようやっとTBCラジオにメール。夜が更けていく程に、寒さが堪えた。23時。一大決心をして、自宅に反射式ストーブを取りに行った。懐中電灯に照らされた私の城はテレビ以外、全ての家電家具が倒れていて、足の踏み場がなかった。その光景にまた恐怖を覚えた。『ホントにヤバい』なかなか眠れぬ夜に、タバコの量ばかり増えたけど、その度に見上げた星空はキレイすぎて「今日が流星群だったら良かったのにね~」なんて言葉がでた。しばらく、いちいに泊まったり、チャリ通の日々。髪の毛は天然ワックスのおかげででニット帽が手放せなかった。仕事が終わればろうそくを囲んでおしゃべりをし、0時になれば各々が、自分の寝床に行く。朝は寝癖、素っぴんのスタッフ同士の挨拶に、やけにいとおしく感じたりもした。45分のチャリ通は、4号線をひたすらペダルをこいだ。真っ暗な4号線、坂道、吹雪の夜もひたすら「がんばれ、私」とあえて口に出して。通りかかった軽トラのおじさんはわざわざマイクで「姉ちゃん、がんばれよ!おじさんも負けねえからよ」と応援してくれた。清掃会社のおじさん、おばさん、近所の人、ヤマザワの店員さん、他の施設のスタッフさん、家族の皆さんに「ラジオ、聞いたよ!無事だったんだって安心したよ」色んな方に想われていたんだなと実感。断水に泣かされた3週間。家族さん、地域の人たち、いずみ、はごう、希望さん、保さん。お風呂を貸してもらい、何百リットルかわかんないけど、お水を頂き、本当に命の恩人です。役場からもらったハムや笹かまに感動し、いずみから車1台いっぱいいっぱいに食料を積んで帰った時は、ヒーローになった気分だった。前を見て歩く事より走る事に必死だった。止まらずにいたかった。カレンダーの裏にみんなで書いた「がんばろう、いちいの杜」。今も貼ったまんまにしてあります。みんなの色んな『がんばろう』が書いてあります。余震が起きる度に、ぎゅっと手を握るトミさんを、停電中に自宅から発電機を持ってくると言ってきかず、スタッフを振り切って出て行った松っちゃんを、お母さんと一緒だから安心だと言って母の部屋で眠りにつくさっちゃんを、避難入所で受け入れた本郷さんの時折みせる笑顔を、見えない不安から守るのは自分達しかいないでしょ!こういう時こそ『笑』のオーラを発揮せねば。私はみんなに笑ってほしかった。そして私を笑顔にしてくれるのはみんな。資格も年齢も立場もそこには存在しない。笑える事ができる自分を気づかせてくれたのは、み~んなでした。そして誰しもが自分の家族も心配だった事でしょう。澤田家も地震当夜はバラバラでした。妹は七ヶ浜で被災し、目の前に迫り来る津波を傍観していたといいます。父は停電の復旧のために会社へ泊まり込み、母は自宅で毛布にくるまり、暗闇の中を一人きりで過ごしていたみたい。そんな父は、釜石と大槌に災害復旧隊として電柱を建てに行っていました。57歳の体に4泊の車中泊は辛かったはずです。でも、父達は、とにかく電気を通したい一心だったと思います。ガス会社、水道局、東京電力の人達だってみんな、プライドにかけて、仕事をしていたはずです。私は……適切で冷静な判断が出来たかどうか、思い出せないのが正直な所ですが、役職として、とかそんなちっぽけなプライドではなく、介護の仕事に就く者として、そして人としてのプライドは守りきったと思っています。これからどうなる?またおっきな揺れがきたら?水は?食材は?オムツは?そう言ってため息つく人もいたり、実際はキレイ事だけではなかったと思う。でも『負』のオーラも、どうしようなんて言葉も、体調が悪いなんて気持ちも、そんなのいらなかった。以前、取材を受けたNHKのディレクターさんから連絡がありました。今、陸前高田市のGHを取材をしていると。最後に言われました。『こっちの年寄りたちは笑わないんだ。津波で大変だっただろうからね…笑える場合じゃないんだろうけどね。でも何が必要なのかなってやっぱり考えちゃってね、、あれだね、澤田さん達みたいに、底抜けに明るい、ゲラゲラゲラゲラ笑ってる人たちが必要なんだね。いちいがいっぱいあればいいのにね』つまりは、私たちが今、最低限出来る事ってそういう事なんじゃないですかね。 あれから53日。父は、今まで一切メールを打っ事が出来なかったのに、今回の震災をきっかけに、メールが出来るようになりました。今朝も早々と届きました。『おはようございます。今日も仕事を頑張って下さい。父より。』がんばるよ、姉ちゃんは!親友は予定日より1ヶ月遅れて赤ん坊を産みました。さぁ~、今日もがんばろう、私たち!
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