震災復興メール
2011.08.09佐藤賢二
お疲れ様です。いずみの杜診療所佐藤賢二です。先日、町内会夏祭りと事業所の夏祭りを無事終えることができました。前日、当日共に御協力頂いた方々、この場を借りて御礼を言いたいと思います。ありがとうございました。
あの震災から5ヶ月が過ぎ、自分の話にはなってしまいますが、地元南三陸町歌津にもやっと飲める水が出た。と最近聞き、少しホッとしております。
テレビをつけると、震災がらみの特集も大分減ってきたような感じを受けています。時々やっている「あの時はどうだったか」を見ながら地元の様子家族、友人を聞いた話でまとめてみたいと思います。今更と思われる方もいらっしゃるかと思われますが、以前メールでも紹介しましたが、実家が若布の養殖を行っており、家の前が海でした。
地震の揺れが仙台と同程度であり、「確実に津波がくる」そう思った父親は揺れが収まってから海へ向かいました。先月号の致知の文章にも描かれていました「沖出し」を行う為でした。沖に行けば津波も小さなうねりで済みますので、私もよく津波が来そうな時にはするんだと聞いたことがありました。通常は無人で沖に出すのですが、今回は揺れた後にすぐに海面が引いていったことから、有人で行うことになったようでした。
地域の漁師の方々も一斉に同じ行動をとったようです。なんとか波を越えた後、陸を眺めるとそれはすごい光景だったと聞きました。知っている家が土台から引きはがされそのままの形で流されるのをただみているしかない状況だったといいます。自分たちも港に戻れず沖で2泊し、着の身着のままでしたから寒さを凌ぐ為に船を連結し、油圧エンジンに背中を押しあて、眠らないよう声を掛け合いながら過ごした話を言葉少なくはなしてくれました。
後日、自分も聞きましたが「なぜ危険を承知で沖出ししたのですか?」の新聞社の取材にこう答えました。
「自分たちは何十年も海で生活してきた。先人達の教えをただ守っただけで、船があればまた何かできるから・・・」
仕事として今置かれている状況を踏まえ、歴史を大切にし、これからの事を考え、地域や仲間が大切なんだと聞いたときに教わったような気がしました。今、自分の置かれている状況でも同じ事が言えるかと思います。
事業所やグループの歴史を大切にし、先を考えやはり変えるところは変えながら、地域や一緒に働いている仲間を大事に、自身も心に留めておこうと改めて原稿を書きながら思いました。
震災から時間の経過と共に直後の「何か出来る事を」と思っていた気持ちは薄れてきており、日常が過ぎて行っている感がありました。この数カ月間を立ち返りながらあの時感じた気持ちをこれからの仕事に役立てたいと思います。