震災復興メール
2011.05.24
亀澤加代
お疲れ様です。3月11日の大震災から2ヶ月が過ぎました。5月10日に、各地区での災害時の取り組みの発表を聞かせていだき、自分の事業所で足りなかったこと、自分に足りなかったこと、これから意識していかなければならないこと、多くのことに気づかされる機会になりました。そして、こんなピンチの時だからこそ、利用者さんを守りぬける頼もしい職員さんたちの存在に本当に感謝しています。しかし一方で、震災を振り返るにはまだ辛いこともあります。「世の中に意味のない出来事なんておこりはしない。」どこかで読んだ本にこんな一文がありました。それがいつも私のどこかに宿っていて、いろんな困難をどうにか乗り越えてきたかもしれません。しかし、この災いが引き起こした事実を受け止めること自体、随分時間がかかったように思います。
生まれ育った閖上は、今回の大地震による大津波で町全体が壊滅しました。町の営みが遮断され、沢山の方が命を落としました。町を目にした時、まるで、爆弾でも落とされたような信じ難い光景にただただ無念で悔しくて、あたり所のない怒りを感じていました。実家は流されてしまい、家の土台と大きな庭石だけが残されていました。春の訪れを待ちわびていたのか、その庭石のそばに、塩水を大量に浴びたはずの水仙の芽が、何事もなかったように花開き、皮肉にも海はひどく穏やかでした。この地で、自分の祖母と母も津波で命を落としました。
毎週火曜日(母の店の定休日)、雨の日も風の日も雪の日もよっぽどの理由がない限りは、孫の面倒をみるために、閖上から富谷まで来てくれて1泊して帰るのが、母の日課でした。ヒデ(私の息子)が二十歳になるまで来るからね、なんて、ついこの間、笑いながらいっていました。私がくじけそうになりと、「親は子供のために頑張らないで、何のために頑張るの!」と、えらく怒られた時もありました。親だから、言いたいこともいい合って、喧嘩することもありました。清山会に勤めはじめ、子育てをし始めてからの10年は、週1度の母のお泊りによって、支えられていたと思います。86歳になる祖母は、穏やかな人だけど頑固で几帳面、根は優しいばあちゃんでした。毎週日曜日の朝になると、ゆりあげの港朝市にシルバーカーを押して出掛けるのが、ばあちゃんの楽しみでした。朝市で買ってきた油揚げや菓子類を「「ほら、もって行け」と、必ず袋に入れて私に持たせてくれました。今年になって、血行が悪いのか、足がひどくしもやけみたいに腫れ上がっていたので、足浴をし、ニッパーで爪切りをしました。お風呂も最近面倒になってきていたようだったので、せめて、実家に行った時は足浴しようね、なんて言ったばかりでした。
正直、2人ともまだどこかで生きている気がしてなりません。でも、気持ちがいつまでも立ち止まっていてはいけないし、時間は間違いなく、確実に過ぎています。今、ここで、こうやって生きている時間が、もっともっと生きたかった人達の大切な時間かもしれません。今日できることを、明日にと思わず、後悔せず、私という存在を取り囲んで支えてくださっている全ての人達へ感謝し、そして、当たり前の日常を送ることができているということがどんなに幸せなことなのかということをかみ締めながら、今日という日を大切に進んでいきたいと思います。